昭和42年12月26日 夜の御理解
仙人か何かならばいざ知らずだけれども、生身をもっておる人間は仙人のような生活はできない。お道の信心をさせて頂く者は仙人のような生活を目指すのでもなからなければ、そういうことを願いとする信心でもない。どこまでも神様のような生活、いわゆる生神様が目指しておる目的である。生神様というと、何か白髪の老人か何かを、このお互いが想像いたしますけど、そんなことではない。
「生神様というのは自分の心の中にいつも充実した有難さ、勿体なさ、有り難いなあと、勿体ないなあと。そういう充実した内容を持った人間をお道の信心では生神様という。」「この方のことを生神、生神と言うけれども、皆もこのようなおかげが受けられる。生神とは神がここに生まれるということであって」というように教祖の神様は教えておられます。自分の心の中に有り難いなあと、勿体ないことだなあとこういう、ね。
仙人か何かであったら、それこそ雲か霞か食べていけば生きていかれるという話だけれども、生神様はそんなわけにはいかん。(やっぱり?)人間の頂く、やはりお食事を食べ物を食べさしてもろうて、日々その中から有り難い勿体ないという生活をさして頂けれるような努力をする、精進をすること。ように、肉体の上にもそうした食べ物がどうでも必要であるように、これはね。
一時食べ物を、まあ一日なら一日でも断食するとですね、もう力が抜けてくる、ね、ようにその、食物とはそんなに有り難いものなんだ。一日なら一日の断食をさしてもろうて、お食事をさしてもらうとそのお食事がもう本当に有り難い、どんなものを頂いてもおいしい。そして、立とごつもなかった、手を挙げるごともないほど疲れておる者が、ちゃんとすぐ元気になる。
食べ物ぐらい不思議な力をもっておるものはないのであります。ようにね、私たちがその今日言う、生神様を目指すという、ね、有り難い勿体ないという生活をさして頂けれる人間を目指さしてもらおうというためにはです、肉体に食物が必要であるように、心に糧を与えなければならん。「心に糧を与える。それを私信心だと思う。それが教えを頂くことだとこう思う。自分の心に頂く糧というのは、やはり御教えである。
その御教えを頂いてまいりますと心がですね、いわゆる自由自在に働くことができる。心で働く。心の手足があるなら心の手足が自由に動くようになる、ね。」その心の糧が貧しいために、はあ本当に今日はこんなに暗い、モヤモヤイライラ、腹が立つという時にです、はあこれは腹を立てちゃいかん。モヤモヤしちゃいかんと思うてもです心の糧に、糧が貧しいために頂き不足のためにもう自由を失っておるわけなんだ。
心に十分の糧を頂かして貰うならです、必ず自分の心を自由自在に心の手足が動いてくれる。心の5体が動いてくれる、ね。有り難い方へ有り難い方へとものを見ものを聞き、ね、事に当って行く事が出来る有り難い心で。そういう意味で心の糧をどうでも必要とする。祈念祈祷で助かるのではない、この方の信心は話を聞いて助かる道と仰る。話というのは普通の話じゃない、御教えである、神様のお心である。
それを私たちが心の糧として頂くから、心が自由自在に動けれるようになるのである。今日は私いつもここに9時に、奉唱して9時からかかるんですけれども、今日は私くしはちょうど7時にここを奉仕さしてもらう、まあだからいつもより2時間まあ奉仕をしたわけ、ところが神様がね私が7時間ここで、7時間じゃない2時間7時からこうして奉仕をさして頂いたら早速お参りがある。
もう7時から9時までの間というのはもうほとんどお参りがない。手代わりの先生達が、やはり御神前を奉仕さして頂いておるというのが普通である。お広前も真っ暗うして、御神前だけにご神灯がついて、まあ静かにご神前の奉仕をしておるというのが普通だけれども、今日は私はですね、18人、7時から9時までの間のお取次をさして頂いとる、ね。もう本当に有り難いお取次をさして頂いておる。
先程指出からお参りになった方。私はここに何回夏に敬親会があっておる、ここで浄瑠璃があるというので、ほんなら浄瑠璃なっとん聞いちこかと思うてからその、浄瑠璃聞きに来たのが始まり。そして神様の有難さが少し分かってきた。でイライラモヤモヤする時に必ず私はこの、私は金光様に参ってくるて言うてから、その出て来るそうすると心がさっぱりして帰らせて頂いておると、家の者まで心がさばさばなっとる。
これは不思議な神様がじゃあると思うてから、もうとにかくその心が浮かなかったり、心がイライラしたりする時には、金光様にお参りをすることに、もう決めたと。そして、最近は合楽会が楽しみである。初めてこの頃からお月次祭というのに参らせて頂いたら、今度の除夜祭という今年最後のお祭りがあるのに、お正月のお鏡さんのお供えをなさる方はもち米を持って。
お見えられりゃここで一緒につきますからという話を聞いて、今日はこの人と2人で話し合いましてから、おもち米のお供えを持ってまいりましたと言うて持って来た。それで先生、この神様は不思議な神様ございますねちゅって。先日あの、とりあげん時でございます。もうあなた嫁子と息子がもうイライライライラしてから、もう何のためにそげんイライラしたりプンプンしたりせんならんじゃろうかといよったら。
機械が止まってしもうたと。ほらばちかぶっとるてと私思いながら、あの人どんが2人イライラするもんじゃけんで、私までイライラしだした。したら本当にあの、先生があの喜び、喜びって仰る。喜びの種を蒔くと喜びが、その芽が出ると仰るから、もう私一生懸命で金光様金光様って唱えた、ね。そしたら、私の心も穏やかになり、嫁子も息子も穏やかになったら。
機械がしらごつ(「嘘のように」の意)のごとおこりましたとですけんねって言うて今日、話される。命がないようにあるところの生命がないようにあるところの機械にまでも通ずる。まあそういうささやかな体験ですけれども、おかげ頂いていきよると言うてから、今日話しておられます、ね。ここへ来て、心の糧を少し頂かれると心が、金光様金光様と言うとる間に、ね、
イライラの心から有り難い心へ切り替えていけれることができる。ですから心の糧をもっともっと沢山頂いて、十分に頂いて、いわゆる心の手足がです、自由自在に動くだけの元気な心が心の中に頂けるようになったら、イライラもモヤモヤもすることはいるまいと私は思うですね。教えの頂き不足です。心の糧の頂き不足です、ね、そうして、私共は目指すとこはどこかと言うと、ね、
仙人でもなからなければ、普通で言う神様ではない、いわゆる生神様を目指すのである。生神とはここに神が生まれるということ、生神とは自分の心の中に有り難いなあ、勿体ないなあという心が生まれることを生神という。その生神を目指して、私共が信心をさして頂くのである。思いますね、私がもし信心がなかったら、今頃どういうことになっておっただろうか、もう命がなかったかもしれない。
いやもし命があったにしても、まあどういうことになっとっただろうかと思うていつも想像してみる。若い時から遊芸が好きだった、ね。ひょっとすると私は芸人にでもなっとったかもしれん。と言うて、んーなら(そんなら)私が天才的な、芸、その好きだけであって、下手の横好きですから、よい芸人になれとるはずはない、それこそ中途半端の何とん知れん、言わば旅回りの芸人くらいのことであろうとこう思う、ね。
確かにね、心に糧を与えなくても肉体は成長する、食べ物を食べるから。心も何とうなしに成長するけども、成長する成長仕方が違う。立派に成長するのと、立派ではない成長の仕方、ね。そこに素晴らしい、私は御教えの信心というおかげを頂き、信心で頂くところの教えの糧を頂いてきたから私が間違いなく、今日までここにおかげ頂くことができた。そして、本当に私現在、生神様を目指しておる。
ははぁこういう心の状態が生神様だなと、時々自分で感ずることがある、ね。有り難い方へ、有り難い方へ、私の心が自由自在に使えるということは、私の心の中に自由自在な、働きのできれる原動力が私の心の糧が、私を言わばそういう働きをさしてくれることになってきたのである。お互いもしっかりひとつ心の糧を頂いて、心が本当に有り難い意味合いにおいて成長さしてもらうという(こと?)。
しかもその成長したその心の成長がです、どういう結果を生むかと言うと、有り難い、勿体ないと答えの出て来るような、私は生活が目指されなければならない。それを信心というのであるね。雲や霞を食べて生きていけれる仙人ならばいざ知らずだけれども、やっぱり私共は、食物を頂かなければ肉体がほろびてしまうように、自分の心も同じこと。雲や霞じゃいけません。
やっぱり本当に、生(なま)に頂けば先程の何回か参った人が感じるように、ここにお参りをしてお話を頂いとる間は助かっておる。と言うように心の糧を頂かしてもらうところから、心が有り難い方へ弾んでいく元気が出る。そして自由自在に自分の心を使うことができるようになるから、私は自由自在なおかげが受けられるようになると思う。どうぞ、自由自在なおかげが頂けれるような信心を目指さなければいけない。
どうぞ。